バス歌手三浦克次君は、新潟県加茂市五番町の三浦助産院の次男として生まれた。
無論、音楽とは無縁の環境である。
その彼が三条高校時代、こんなエピソ-ドを持っている。それは、音楽の授業中、みんなで合唱していた時のことだ。彼のクラスメ-トの一人が、後ろを振り返り、こう言った、「おめえ、美川憲一みてな声出すのやめれや。」と。別に特別な声を出しているつもりはなかったのだろう。しかし、それ以来、普段から特に目立つ存在ではなかった彼の授業中での合唱の声は極端に小さくなった。
その欲求不満を振り払うごとく入ったクラブは、弁論部と合唱部。よほど声を出すのが好きだったらしい。
彼は、明治大学法学部に入学した。弁護士になるために。
在学中、弁護士になるため法律研究所で勉強する傍ら、大好きな合唱も忘れられず、迷わず混声合唱団にも入部した。しかし、趣味と仕事とは違う。彼は弁護士になろうと思っていた。すくなくとも4年生までは。
そんな彼が4年生の時、合唱団の演奏会でオペラの中の合唱曲を歌った。頭をガンと殴られたような気がしたそうだ。これが三浦克次君とオペラとの最初の出会いである。
そしてさらに、来日したイタリアのミラノ・スカラ座の公演を観た。今度は、心臓をわしづかみにされたような気がしたそうだ。
素晴らしい合唱、気の遠くなるようなソリスト達の声、そして何よりも、舞台のスケ-ルの大きさに圧倒された。“オペラが歌いたい。ソリストになれなければ、合唱でもいい。それでも駄目なら小道具の一人でもいい。とにかくオペラに携わる仕事がしたい。”三浦君は熱望した。
その様子を見て、合唱団のヴォイストレ-ナ-で名テノ-ルでもあった先生が「君の声はプロとして通用する。しかし大変厳しい道だから、手放しでは勧められないが、どうしてもやりたいのならアドバイスしよう。」と言って下さった。
それでも彼は大学卒業後も悩んでいた。2年間、悩みながら司法試験の勉強をした。
目黒の守屋図書館(この図書館は当時としては珍しく、右側は本の並んでいる図書館だったが、左側はレコ-ドがぎっしり置かれている視聴覚室だった)の入口に立つと、右に行くか、左に行くかいつも考え、彼には自分の人生と重なってみえていた。
エイヤッと彼は左に進んだ。驚いたのは加茂市のご両親である。東京の大学を卒業した息子が電話で「オペラ歌手になる」と言ってきたのだ。母は泣き、父はうなった。親戚中が止めた。成れる訳がない、皆がそう思ったのだ。それでも三浦君の意思は固かった。死ぬほど悩んだ末の結論だったのである。
やがて、周りの思惑に反してあれよあれよという間にオペラ歌手としての道を歩き始めた。
藤原歌劇団の研修所に特待生として入り、その在学中にヴェルディのオペラ『仮面舞踏会』のシルヴァ-ノ役に異例の大抜擢され、藤原オペラの檜舞台に立った。
そして、国際ロ-タリ-財団の奨学生としてロ-マに留学。今や、藤原歌劇団のオペラは勿論、本場イタリアのオペラにも出演し、又、第九、メサイヤを始めとする宗教曲も歌う、日本を代表するバス歌手の一人である。